スターウォーズはジョージ・ルーカスである。スターウォーズをぶっ壊した4人の戦犯。

レビュー記事
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スターウォーズエピソード9、最後の予告編が公開されましたね。
今回は、最終章公開前に、今私がスターウォーズサーガについて思っている事を書いてみようと思います。

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予告編公開。 現代的に味付けされた、EP9という申し分のないスターウォーズ感。

EP9が公開された際には、いちスターウォーズファンとして、いろんな批判抜きに作品世界を味わいたいと思っているので、今日、この場で、シークエルトリロジーについて思ってきた批判的感情をすべて吐き出しておこうと思います。

予告編は映像の軽快さ、スターウォーズ要素の勢ぞろい感、斬新なカメラワーク、どれをとっても素晴らしく、J.Jによって現代的に味付けされた、EP9という申し分のないスターウォーズ感を感じさせてくれます。
ただ、やはり、JJはどこまでいってもJJです。
この予告編はものすごくわくわくさせられますが、どこまでいってもファンによる、ファンにためのスターウォーズに過ぎません。
言ってしまえば、よくできたファンアート止まりです。

JJに対して、何点か、監督として、映画を作り上げるクリエイターとして、看過できない点があるので以下、2点に絞り込んで書いてみます。
(私の基本的立場として、スターウォーズで一番好きなのが、エピソード3です。これでこの記事のスタンスがお分かりいただけるかと思います(笑))

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J.J.エイブラムスの罪①。ジョージ・ルーカスの脚本をなかったことに。

ジョージ・ルーカスがシークエルトリロジーのために何やら脚本を構想していたらしいということは、日本にいる私のもとにも噂程度に聞こえて来ていました。またそれがフォースにまつわるミディクロリアンなどの微生物世界の物語らしいということも。
その噂が本当だとすると、ルーカスのオリジナル脚本はどのように映画に反映されたのか?
その答えが今年9月、ディズニーのCEO、ボブ・アイガーの自伝によって明らかにされました。


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詳しくは以下の記事を読んでいただければと思いますが、
とにかく書き上げた脚本はJJも含む4人のひとたちによって却下されました。

https://www.esquire.com/jp/entertainment/movies/a29257951/george-lucas-upset-betrayed-star-wars-new-trilogy-disney-190929/

実のところ、キャスリーンとJ・J・エイブラムス(『フォースの覚醒』の監督・脚本家)、私とアランの4人は新たな3部作の方向性について話し合い、「ジョージの描くあらすじとは違う」ということで一致していたんです。

esquire.com

私から言わせれば、いわばこの4人がスターウォーズをぶっ壊した戦犯です。
その中でもJJの犯した罪は個人的に一番大きいと感じています。
彼とルーカスは同じ映画監督というクリエイターです。
彼には物語を作るということがどういうことかわかっているはずです。その大変さも含めて。。
彼は商業主義の大人達の中で唯一ルーカスを擁護すべき立場にいたはずです。
それをしなかったばかりか、スターウォーズの新作を陳腐な脚本に書き換えてしまった責任はとてつもなく大きいです。
出だしのエピソードがこのありさまだったので、いくらライアン・ジョンソン監督がエピソード8で意欲的な脚本を書いたとしてももはや収拾不能で、それどころか各エピソードの整合がとれておらず、シークエルトリロジーに脚本的なすばらしさを期待することは不可能な状況になってしまっています。


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J.J.エイブラムスの罪②。エピソード6までの歴史を帳消しにした。

JJのもう一つの罪としては、新しい3部作の皮切りの物語として、驚くほど陳腐な懐古趣味の脚本を書いてしまったことで、それまでの物語としてのスターウォーズを台無しにしてしまったことです。
「オリジナル原理主義者」には理解不可能かもしれませんが、ルーカスは第一作のエピソード4から、特に映像技術分野に関して革新的な事件を起こしてきました。スペースウェスタンという懐古的な要素はあるものの、ある一面では非常に革新的な性格を持った映画だったことは疑いありません。
JJは、このスターウォーズにおける革新性を完全に消し去ってしまいました。
特にチャレンジングなこともなく、オールドファンが喜ぶベタな展開に終止してしまいました。
何より、懐古趣味に徹した結果、エピソード4の脚本を焼き直すという愚行を犯し、その代償として、オリジナルで足掛け6年、プリクエルも含めると1977年から2005年までの足掛け28年間かけて描かれてきたスカイウォーカー家、特にルークの偉業がなかったことにされるという、まさに懐古趣味がオリジナルを殺すという非常に不愉快な結果に終わっています。
このEp.7の脚本を踏まえて、私たちは、エピソード6の大団円をどう理解しなおせばいいのでしょうか?

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スターウォーズはジョージ・ルーカスである。

ルーカスフィルムを買収したディズニーのジョン・アイガー、同じくディズニーのアラン・ブレイバーマン、ルーカスフィルムのキャスリーン・ケネディ、映画監督のJ.J.エイブラムスは誤った判断でシークエルトリロジーを推し進めました。
それは、原作者ジョージ・ルーカスの意思以上に商業的可能性を優先するという判断です。
その判断を私が間違っていたと考えるのはなぜか?
それはジョージ・ルーカスこそがスターウォーズであるからに他ならないと考えています。
1977年、すべてはジョージ・ルーカスの頭の中で始まりました。それから2019年の今まで、我々は彼の頭の中が具現化した世界を見てきたのです。
彼は、ロード・オブ・ザ・リングにおけるJ.R.R.トールキンであり、ゲーム・オブ・スローンズにおけるG.R.R.マーティンであり、マトリックスにおけるウォシャウスキー姉妹なのです。
彼ら原作者が存命の場合、まずその考えをリスペクトするというところから作品づくりは始まるのではないでしょうか?
スターウォーズは、ジョージ・ルーカスなのです。

「微生物の物語」は本当につまらないのか?成功例から考える。

スターウォーズをぶっ壊した4人からすると、ルーカスの微生物を舞台にした作品は地味すぎた、皆さんもそんなスターウォーズ見たくないだろう?というのが言い分なのでしょう。
一見すると、それにはある種の納得感が感じられますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

実は、近年、一見摩訶不思議な架空の生き物を主題に据えた映画で、興行的にも映画の評価としても高評価を得ている映画があります。
魔法生物をそのタイトルに冠した、全五部作(予定)のシリーズです。そう、ハリーポッター世界の新シリーズ、ファンタスティックビースト(=魔法生物)シリーズです。
この映画は第2作までが公開されている現在継続中のシリーズですが、徐々にその構想が明らかになってきています。
ファンタビについては以前記事にしてるので詳しくはそちらをご覧いただければと思いますが、

要は、ファンタビシリーズは、ダンブルドアVSグリンデルバルトという大魔法使い二人の歴史的決闘を全く別の視点から描いているところが現代的な魅力につながっていると思うんです。
どういうことかというと、普通なら主人公としてダンブルドアやグリンデルバルトを据えるところを、魔法生物の研究者であるニュートスキマンダーという言わば地味なアウトロー視点で描いているところが特徴であり、このシリーズには彼の視点だからこそ描かれるシーンというのが間違いなくあり、そこがハリーポッターの従来シリーズにはない新しい魅力になっています。
また、そういうアウトロー、少数派の視点でシーンを描くことで、王道視点では絵がかけない、弱者の視点や多様な価値観を見せることに成功していて、多様性の時代と言われる現代にもマッチした作風になっています。

スターウォーズの微生物世界の物語というプロットに関して詳細は分かりませんが、もしディズニーがキワモノ扱いせず真摯に向き合っていたなら、スターウォーズに別の視点を提供し、かつそれは懐古主義ではない、現代的な価値観を持った物語になったかもしれません。
ルーカスは語っています。
「多くのファンは毛嫌いするだろうが、少なくとも初めから最後まで、この物語全体は語られることになっただろう」

さて、以上、シークエルトリロジーについて今思うことを全て書かせてもらいました。
次の記事で、あり得るエピソード9のあらすじについて考えて見ようと思います!!

↓記事を書きました!!↓

コメント

  1. […] 前回の記事でシークエルトリロジーについて色々と言いたいことを言ってみました。 これで大分スッキリしましたので、最後にEP9について言及して終わりとしたいと思います。 […]

  2. […] […]